始まりの合図
ドイツチームが練習をしているという屋外コートに来たものの、どう声をかけようか迷う。そう思って、跡部は踏みとどまる。
声などかけずとも良いか、と。
チームとしては敗退したというのに、鍛錬を欠かさないのは当然としても、手塚は常に上を目指している。それを邪魔していいはずもない。
フォームか球速かを見られているのか、球を打つ手塚の傍にボルクがいる。
手塚が素直に指導を受ける光景というのは新鮮でもあって、あのふてぶてしい顔とこの光景が見られただけでいい。本当にそう思った。
揺るぎない信念が自分の中にある。それを確かめられた。
顔を拝みに行くかと空港からここに来るまでに、だいぶ気持ちは落ち着いたと思ったが、全然だ。
胸の奥が熱い。
苦笑して、跡部は踵を返す。
その直後、誰かの打った球がおかしな方向に跳ねて跡部の方に飛んできた。咄嗟に受け止めて視線でボールの軌道を逆行すれば、腕を組んだボルクに何事か言われている手塚が目に入った。
まさか手塚が打った球なのかと手の中の黄色いボールを凝視する。ボルクの視線がこちらを向いて、跡部は咄嗟に軽く頭を下げた。それを確かめた後、手塚がボールを握ろうとするのを止められたようだ。
まるで子供扱いだなと肩を竦め、手塚がこちらに向かってくるのをその場で待つ。他のメンバーたちの視線も痛いほどに感じたが、跡部の視線は手塚ただ一人に向かっていた。
「すまない、跡部」
「いや、邪魔して悪いな」
目の前まで来た手塚にボールを返して、はたと思い至る。手塚がボールの跳ねる方向を見極められないはずがないと。それなのにこんなところまで飛ばしてしまったのは、よほど動揺したか、もしくは――。
「わざとだろ、てめェ」
「なぜ帰ろうとしたのか訊きたかっただけだ。いつものお前なら、図々しく割り込んでくるだろう」
「真剣に練習してるとこにか? さすがにそこまで分別ねえつもりはねえんたが。アーン?」
やはりわざとだったかと眉をつり上げていつものように煽ってみせる。
「しかしお前は目立つ。視界に入れば気にかかるんだが」
「そんなのてめェの集中力不足だろ」
ふんと鼻を鳴らすが、こんなことを言いに来たわけではない。そもそも顔を見に来ただけで、何を話したいということもないのに。
「……次のスペイン戦、S3で出場する」
他のオーダーを明かすつもりはないが、しかしこの事実だけは報告しておきたい。手塚の方はどうだか知らないが、跡部はこの男を戦友だと思っている。逆の立場だったら、決勝戦の試合に選手として出られるのかどうかは知りたかっただろう。
「そうか。観戦できるのを楽しみにしている」
心なしか安堵したような表情を見せてくれて、跡部の方こそホッとする反面、いたたまれない。それが表に出てしまったのか、手塚がひとつ瞬いた後で強く訊ねてきた。
「どうした、跡部。お前なら必ず選出されると思っていたんだが」
「買いかぶりだぜ」
跡部は手塚から視線を背け、唇を噛む。選ばれてやると思ってはいたものの、結果はあの体たらくだ。ややあって、跡部は口を開いた。
「選抜内で、希望のオーダーごとに試合したんだ。勝つつもりだった。そのために鍛錬もしてきたぜ」
「希望のオーダーか。それでお前がS3とは……なるほど」
手塚もわずかの間とは言え選抜に所属していた身だ。スペイン戦を控えて何があったのか、即座に理解したのだろう。そして恐らく、S2とS1の選手も思い当たったに違いない。
「負けてたんだよ、俺は――入江さんに。5-0だぜ、情けねえだろ」
「……そうか」
「どうやってあの人を倒そうか、どうやったらゲームを取れるのか、って時に水差されちまってな。他のブロックで中高生の選手配分が決まって、そのまま俺がS3になった」
だいぶ落ち着いたと思ったけれど、いまだに悔恨が残る。こんなふうに決まったものを、すぐに受け入れられるわけもない。勝つことがすべてだというのに、これで他のメンバーは納得するのか。今まで入江と共に戦ってきた高校生たちは――入江自身は。
「俺は……俺たちは、ルールに負けたんだ」
入江は高校三年生。これが最後のU-17選抜だった。彼の悔しさはいかほどのものか。
「空港に向かう最中にも、ずっとそのことだけ考えてたな」
納得などいかない。勝つためにここに来たのに、選手として、完膚なきまでに敗れた。その自分が決勝戦でラケットを握っていいものか。
「空港? 跡部、お前……」
「辞退、しようとした」
手塚の目が珍しく大きく見開かれる。
悔しさだけで、プライドだけで、投げ出したわけではなかったと思う。未熟なままの自分が、日本代表を背負うわけにはいかない――そう思ったのに。
「空港で、樺地に止められたけどな」
いつでも従順に後を着いてきてくれていた樺地が、跡部に背いた瞬間だった。彼の後ろには氷帝の連中もいたようだが、樺地に止めさせる選択をしたヤツらには称賛を贈るべきだろうか。樺地で無理なら、張り倒してでも止めようと思っていたのだろう。
「せっかくのチャンス、ふいにしないで良かったな、跡部。もし俺が傍にいたら、殴ってでも絶対に止めていただろう」
力強く頷きながら、手塚が口にする。今度は跡部が目を瞠る番だった。チャンスと言う言葉は、入江にも言われたものだ。
「おいおい、暴力沙汰は御法度だろうが」
「茶化すな。お前のプライドの在処は分かる。だが跡部、プロになるならその屈辱をも乗り越えられなければ、到底やっていけないぞ」
「……ああ、すぐに追いかけるっつったからな」
手塚をドイツへと送り出す際、プロになるならそれを追うと言った。あの時の気持ちに嘘偽りはない。現実は容赦なく打ちのめしてくるが、それさえ享受しなければならないのだ。手塚がドイツでどんな鍛錬を積んだのか分からない。心が折れそうになったときもあるのかもしれない。
屈辱を乗り越えろと言われ、跡部は目を伏せた。
ルールに負けた。入江に負けた。
敗北の屈辱と悔恨はお互い様で、だからこそ……跡部が辞退などしたら入江は試合の時以上に圧倒的な力の差で張り倒してくるはずだ。水を差された真剣勝負に、さらに水を差すなと。
「入江さんに、つまらないって言われたぜ。あれは撤回させねえといけねえ。あの人の悔しさを背負って、俺は上に行くぜ、手塚」
目を開き、いつものようにしたたかに言い放つ。視界に、満足そうに口許を緩める手塚を認めた。
「いつものお前に戻ったようで何よりだ。報告しにきてくれたことには、感謝する」
「顔だけ見て戻ろうと思ってたんだけどな。ふ、ふふ……まったく、お笑いぐさだぜ」
こうして言葉を交わすまで、まだどこかで納得しきれないものがあった。手塚の声は跡部を落ち着かせもするし、落ち着かなくもさせる。
「なあ手塚。俺はな、空港で樺地に止められても、氷帝のヤツらに張り倒されても、こんな屈辱の中で戦えるかって思ってたんだ。アイツらを振り払ってでも辞退するつもりだった」
「跡部」
責めるような声音で名を呼ばれる。最後まで聞けと笑い、トンと指先で手塚の鎖骨を押した。
「たまたま通りかかったスペインのヤツがな、最強中学生のクニミツと戦いたかったってよ」
「それは光栄だが、最強というのはどうだろうか」
「そうだろ、だから俺様が宣戦布告してきてやったぜ。俺はその最強中学生のクニミツを倒した男だってな」
夏の関東大会、ただ一度公式戦で対峙した。あの時の熱は忘れていない。きっとこの先ずっと忘れられないものなのだろう。
「なあ手塚、俺がその時感じたもの、分かるか? 最強と謳われることへの嫉妬に似た羨望と、そこまで言わしめるお前が無二のライバルだという歓喜――湧き上がってくる闘争心。泣きたくなるだろ、
つま先から、熱が上がってくるような感覚を味わった。未熟さも屈辱も背負えるだけ背負ってやると決めた瞬間だ。それを糧にして、もう一度この男を打ち負かしてやりたいと思う、いっそ恋情のような情熱。顔を見て、決意を固めようと思って、今に至る。
行動したことは間違っていなかったなと、満足した。
「プレ杯でのあれは」
「あんなの数に入るかよ、ばーか」
「…………お前の負けず嫌いなところは、好ましいと思っている」
「そりゃこっちの台詞だ」
さしていた指を握り込んで、拳で胸を叩いてやる。それを手塚の手が包み込んだかと思えば、ぐいと強く引き寄せられた。
「なっ…………ん」
視界が揺れる。鳶色の髪が眼前に迫る。目を閉じることができなかったのは、突然だったのと、挑むような瞳に釘付けにされたせいだろう。
唇に触れたのは、間違いなく唇だ。
跡部は目を見開き、なんのつもりだとぐっと手塚の体を押しやるが、目の前の男はそれさえ気にも留めていないようだった。たった今、図々しくも唇を奪っておいて。
「おい手塚……俺とお前の間に、今までこういった要素はあったかよ?」
触れた唇を拭おうとして、なんだかもったいなくてできないことに気がつく。もったいないってのはなんだ、と思いつつ声には出さず、手塚を睨みつけた。
「なかったと思うが」
「じゃあなんの嫌がらせだてめェ。俺様はそんなに安い唇持ってるつもりはねえ」
挨拶でないキスは初めてだったなどと、言うつもりはない。そんなことを言ったら最後、この男のことだ、責任を取るとでも言い出しかねない。
「好ましいと言っただろう、今。俺も――お前も」
唖然とした。どうしてあれがこんなことにつながるのだろう。手塚の方がそのつもりでも、跡部はそんなつもりで言ったわけではないのに。
「あ……のな、好ましいイコール愛してるじゃねえだろ」
「俺もそこまで言ってない」
しれっとした態度で、手塚は恋らしきものを告げてくる。好ましいが愛してはいないと言われたのはなんだか癇に障って、悔しさがせり上がってくる。ファーストキスをくれてやったのだから、それ相応の想いであって然るべきではないか。
「そもそもお前の方が恋の告白をしに来たのではないのか。わざわざ練習中に他国のエリアまで来て」
「んなわけあるかぁ! 俺はただお前のっ……」
顔が見たかっただけで、と言いそうになって踏みとどまった。それこそ熱烈な恋の告白ではないか。この男が自分にとってどういう存在なのか、喧伝していたようなものだと思うと、途端に気恥ずかしくなってくる。誤魔化すようにちらりと視線をコートの方に向ければ、手塚のチームメイトたちがぎこちなく、分かりやすくそわそわとしている。絶対に今のやりとりを見られていたに違いない。すっかり忘れていたというか、こんなことになるとは思っていなくて、跡部にしては珍しく対応が浮かんでこなかった。
「お前、どーすんだよあの連中。質問責めに遭うんじゃねーのか」
「…………ああ、若干うるさそうなのはいるが……こうなった以上は正直に話すべきだろう」
チームメイトたちの様子には気づいていたようで、わずかに視線を流しただけで戻してくる。
「事故みてえに言うんじゃねえ、てめェが始めたことだろうが」
「跡部、それは〝始まった〟のだと捉えていいのか」
強引に始めておいてなにをのたまうのだろう、この男は。しかし、跡部は拒むこともできるのだ。駄犬に噛まれたのだと思って忘れてやることだってできる。テニスに関する屈辱はすべて受け止めると決めたものの、屈辱にもならないこれはいたいどうしたらいいだろうか。
やはり、顔を見るだけで帰っていればよかったと跡部は天を仰ぐ。空港でそうした時とは違う色が見えた。
そうして顔を正面に戻し、拒まれるとは微塵も思っていないようなふてぶてしい手塚国光を視界に入れる。
「構わねーが、やられっぱなしは性に合わねえ」
そう言って長い指先で手塚の顎を掴み、引き寄せて唇にキスをする。一度も二度も同じだ。
手塚のキスよりも長い時間触れ合わせ、これで俺の勝ちだとばかりにちゅっとリップ音を立てる。
「俺が好きなら、いつか愛してるって言わせてみせな」
「お前が俺に言われたいの間違いではないのか」
「聞いてやるから素直に言えよ」
「そっくりそのまま返そう」
「可愛くねえな」
「可愛くなくて結構だ」
たった今合わせた唇が、甘い雰囲気とは逆方向に動き出す。瞳の間に飛び散る熱は、恋人同士のものでなく宿敵同士の火花に見える。
跡部のスマートフォンに日本の選抜メンバーからの連絡が入るまでその問答は続くのだが、ひとつの壁を打ち破った跡部の声音は軽やかなものだった。
2022/12/02