そのすべてを覚えたら

 11月11日、午後11時11分。手塚国光は、つきあって11年目の恋人の前で、正座をしていた。
「お前なあ……」
 恋人は細くはない腰に手を当て、上から見下ろしてくる。今日もその瞳は綺麗だななんて思うが、これは口に出さない方がいいのだろうと手塚は口を引き結んだ。
 怒っている、のだろう。それは明白だ。原因は、恐らく、アレだ。テーブルの上の、菓子の箱。
「なんだってこんなに大量に買ってくんだよ!? お前元々こういうのハマってるわけじゃねえだろ!」
 それをビシッと指さして、恋人――跡部景吾は声を荒らげた。跡部の言うことは確かなので、手塚はこくりと小さく頷く。まるで悪びれていない様子に、跡部の眉間のしわがさらに深くなった。
「1つや2つならまだしも、なんで駄菓子が7,……8、9個もあんだよ!?」
「駄菓子ではない、季節限定のは高級チョコを使ってあると書いてある」
「俺様には充分駄菓子だ! なんなんだよ……甘いの食いたかったにしても、多過ぎんだろ……」
 跡部が駄菓子というのは仕方がない気がする。彼の口に入る物はほぼほぼが高級品だからだ。大きなため息を吐きながら跡部は一つの箱を取る。サクサクのビスケットを芯にチョコレートをコーティングしてあるものだ。同じ商品なら、何か買う個数によって特典でもつくのかと考えるだろうが、手塚が大量に購入してきたのは銘柄もメーカーも違う物。だからこそ跡部も首をひねっているのだろう。
「スーパーに寄ったら安売りをしていたので、つい買ってしまった」
「は?」
 告げた事実に、跡部が素っ頓狂な声を上げる。予想外の答えだったのだろう。ぽかんとした顔からは、すっかり怒気が失せていた。
「3つ買うと安くなる仕組みだったんだが、選び切れなくて、その数になったんだ。すまない。賞味期限はまだ先だから、無駄にすることはないと思うが」
「は、いや、しょ……あのな……」
 これがナマの食材だったらどうなっていただろうか。サステナブルどころではない。一緒に暮らしているとはいえあまり時間が合わないせいか、久しぶりにゆっくりできるということに浮かれてしまった感もある。勝手をしたということで、ケンカから別れ話になる可能性だって……いや、な……ある、かもしれない。手塚は膝の上で拳を握った。
「俺はそんなことで怒ってんじゃねえ。……というか怒ってるつもりもなかったんだが……悪い、大きな声を出しすぎたな」
 跡部は天井を仰ぎ、片手で顔を覆う。あー……という抑揚のない声がリビングに吸い込まれていった。
 そうして顔を正面に戻した跡部の瞳が、もう一度見下ろしてくる。
「本当にそれだけが理由なんだな?」
「ああ、そうだが」
「……ならいい。お前がらしくねえことするから、何か悩みでも抱えてんのかと思った。メンタルにくるようなことがあったのかと……」
 手塚は目を瞠った。くしゃりと歪む顔は本当に心配していたようで、胸が痛む。
 こんな時、不謹慎ながらも実感する。この男は本当に全力で愛してくれているのだと。
 手塚はゆっくりと立ち上がり、そっと左手を跡部の右頬に伸ばす。
「……跡部、触れてもいいか?」
 答えを聞く前に、跡部が頬をすり寄せてきてくれる。指の腹で目立つ黒子を撫でれば、安心したように跡部が目を伏せた。手塚はそのまま跡部の体を抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
「心配をかけてすまない。愛されているな、俺は」
「分かってんだったらおかしなことすんじゃねえ。くそ、なんだって安売りなんか」
 無駄に消耗しちまったじゃねーかと跡部が小さく悪態を吐く。手塚はその言葉で、ふと思い出すものがあった。
 そういえば、商品ワゴンのところにポップが貼られていたなと。しかも、珍しく手書きでだ。
「関係しているか分からないが、今日はポッキーの日とかいうものらしい」
「は? ポッキーって、この菓子か? なんで……」
「11月11日だからじゃないのか。日付が棒状になる」
「あーなるほどね。ったく、そんな戦略にまんまと引っかかりやがって」
 変わらない体温を感じて満足したとでも言うように、跡部がぐいと体を押しやってくる。心配させたことにほんの少し怒ってはいるらしい。だが深刻な事態は回避できたようで、手塚は内心ホッとしつつスーパーのポップに書いてあった見慣れない言葉をスマートフォンで検索し始めた。
 ポッキーゲームというのはなんだろう。そんなことを思いながら。
 検索してすぐに表示されたところを見るに、メジャーなゲームのようだ。〝ポッキーゲームとは〟という分かりやすそうなリンクをタップして、読み進める。
 そうしたのを後悔した。
 ポッキーゲームの正体を知った手塚は項垂れ、頭を抱える。決してそういうつもりではなかったのだが、レジを担当してくれた店員にはどう思われたことだろう。
「手塚? どうした」
「いや……スーパーで見慣れない言葉を見たので、検索してみたんだが」
「あん?」
「ポッキーゲームというもので、今日この日、よく行われるらしい」
 ゲームと聞いて、跡部の目の色が変わる。ゲーム=勝負と捉えてしまうのは仕方のないことだ。しかも、お互いに。
「ポッキーゲームだぁ? なんだよ、面白そうじゃねーの。ああ、だからこの菓子が安売りされてたのか。どんなゲームなんだ?」
 言いながら、跡部はすっと手を伸ばしてくる。ポッキーゲームとやらのやり方を検索した画面を見せろということらしい。手塚はほんの少しためらって、顛末を渡した。
「跡部、言っておくが俺は知らずに買ってきたんだからな」
「やけに及び腰じゃねーの。そんなにおかしなもんなのか? …………は……ん、なるほどな?」
 跡部は説明のページを見て理解したようで、にやにやと楽しそうに口の端を上げている。揶揄う腹づもりなのが丸わかりだ。
「キスしたいならそう言やいいじゃねーの」
「だから、俺はそういうつもりで買ってきたんじゃない」
「まあいいじゃねーか。せっかくあるんだし、やるか? ポッキーゲームとやらを」
「やらん。食べ物で遊ぶんじゃない」
「相変わらず堅いヤツだな」
 む、と尖らせた唇にはキスをしたいが、このゲームの趣旨はそういうものではないはずだ。
「これはたぶん、恋人でない者たちがやるのだろう。恋人ならこんなものを口実にせずともキスができるだろう」
 好意を持っている相手への分かりやすすぎるアプローチ、もしくは罰ゲームという位置づけになるはずだ。手塚と跡部では、このゲームが成り立たない。
「ん、まあ……そうだな。俺たちはキスすんのに口実なんていらねえからな」
 跡部が、両腕を首の後ろに回してくる。「ん?」と促すように小首を傾げる仕草が可愛らしくて、手塚は跡部の腰に腕を回した。
「何度してきたんだろうな、キス」
「さあ……数えているわけではないからな」
「感触も温度も、もう覚えちまってる」
「そうか? 俺はまだ覚えられていないかもしれない」
「なんだとてめぇ」
 ピキリと音がしそうな動きで眉が寄せられる。誤解は早めに解こうと、指先で跡部の唇をなぞった。
「だから覚えさせてくれ。ここに触れたい」
 跡部の目が、ぱちぱちと瞬かれる。それはややあって幸福そうに細められた。
「いちいち回りくどいんだよ、てめぇは。……唇だけじゃなく、俺のすべてを覚えてろ」
 そう言って、そっと眼鏡を外してくれる。丁寧につるをたたんでくれる仕草に、やはり全力で愛されているのだと思う。
 ならばこちらも全力で愛そうと、唇を覆った。ベッドまで行く時間さえ惜しくて、そのまま二人でソファに倒れ込む。
 この感触と温度を覚えるために、今日はどれだけ肌を合わせようか。
 たとえ疲れてしまっても、糖分ならここにたくさん積んであるから、心配はいらないはずだ。
「なぁ、あれ……あとで一緒に食べような」
「ああ……そうだな。俺がお前のすべてを覚えたら」
「ふふ、ばぁか……」
 覚えたい唇の感触がだんだんと濡れていく。新しい感覚がやってくる。いったいいつ、すべてを覚えられるだろうか。そんなことを思いながら、手塚は丁寧に跡部に触れていった。


 跡部が、その後棒状のチョコ菓子にハマってしまったのは、想定外のようなそうでもないような。
 



2022/11/11