永遠の情熱に
生きてきた中で、こんなに悩んだことはない。
手塚国光は、店先で佇んだままじっと陳列棚を見つめた。もう二十分はこうしているだろうか。周りには不審な目で見られているかもしれない。
商品を手に取らないままこんなふうに立ち止まっていては、営業妨害になるかもしれないと、ようやく思い始め、ふと顔を上げて辺りを見渡した。
客足はそこそこ、年齢層は若め、男女比は一対九ほどだ。
やはりこういった雑貨店は女性の方が多いのかと、少しばかり居心地が悪くなる。
――自分で使うものなのか、それとも、友人や……恋人にあげるものなのか。
しかし、店内の客たちの顔を観察してみれば、みな一様に嬉しそうにしている。自分用に買う物でも、親しい相手に贈るものでも、選ぶという行為は楽しいのだろう。
ますます居心地が悪い、と手塚は店を後にした。
――こういう時、相手が相手だと本当に困るものなのだな。初めて知った。
手塚がこの雑貨店に入ってみたのは、自分が使う物を買うのが目的ではない。親しい相手――詳しく言うならば恋人に送るための物を手に入れるのが目的だった。
しかしながら、恋人という存在ができたのが初めてで、相手の誕生日を祝うのも初めてだ。
いったい何を贈ればいいのか分からない。
中学生の小遣いで買える範囲で、相手の欲しがりそうなものというのが、どうしても浮かんでこなかった。
交際を始めてあまり時間が経っていないというのも理由かもしれないが、それ以前に、恋人は欲しい物などなんでも手に入れられるだろう。
何しろあの跡部財閥の息子なのだから。
はあ、とため息を吐く。
まさか跡部景吾とこんな関係になるなんて思っていなかった。
何をどこでどう間違えて恋情など抱き、あまつさえそれが受け入れられてしまったのか。
もちろん不満というわけでも、不安というわけでもない。確かに最初はお互いが戸惑っていたようでぎこちなかったが、今ではそうあるのが当然のようになってしまっている。期間が短くとも、通じる物があったのだろう。
――跡部は、……かわいい。プレゼントを贈ったら、どんな顔をしてくれるだろうか。
恋人はひどく整った容姿をしている。好みかそうでないかと言えば、好みなのだろう。テニスをしているときの挑む視線、リターンエースを取られて悔しさに寄る眉間、反撃できて嬉しそうに上がる口角。そのどれもが、手塚の目に焼きついている。
だけど、恋人として過ごすようになってからは、違う部分も見えてきた。
名を呼んで振り向いてくれるときの、柔らかな瞳。少し疲れたと寄りかかってくるときの、無防備な眉。手塚と呼んでくれるときの、幸福そうな口許。
何度かそこにキスをしたこともあるが、唇を離した後に照れくさそうに歪むところも、なんとも言えず可愛らしい。
そんな彼の誕生日が、もうすぐそこに迫ってきている。恋人としては、何かを贈って祝ってやりたい。
誕生日というものを、こんなに特別な日に感じたのも初めてだ。自分自身の誕生日でさえ、祝われるから礼を言い、育ててくれた両親に礼を言う日だという認識しかなかったのに。
跡部景吾の生まれた日に、目一杯の祝いと感謝を贈りたい。
大切な人ができるというのは、こんなにも世界が変わってしまうものなのだと知った。
しかしながら、問題は何を贈るかということである。前述したように彼は財閥の息子で、つまり富裕層だ。欲しいものなどすぐに手に入ってしまうだろう。
服やアクセサリーなど、彼が身に着ける物は高級品だろうし、手塚には手が出せない。
日常的に使える物にしようかとも思ったけれど、それこそ上質な物を持っているはずだ。
では花でも? と考えたが、以前彼の家に行った時そこかしこに豪華な花が飾られていたのを思い出し、断念。
いったい何を贈れというんだと、初めて跡部景吾という男を憎たらしく思った。
だいたい、そういう物に詳しくない自分が攻略しようとしたのが間違いだったのか。
誰かに相談しようにも、誰にすればいいのだろう。一応は、秘密の関係だ。恐らく不二や乾あたりにはバレているだろうが、それでも相談するような相手ではない。
もう何軒か違う系統の店を回ってみようと足を踏み出したとき、携帯端末が着信音を鳴らした。ポケットから取り出してみれば、今現在頭を悩ませている原因である相手の名が表示されている。
『よォ、手塚』
「跡部、どうしたんだ」
『別にどうもしねぇが、ちょっと声が聞きたくなった』
ぐっと言葉に詰まる。どうしてこの男は、明け透けに想いを伝えてくるのか。声が聞きたいと言った相手に、どう返せばいいのか分からない。
『なんだ、お前今、外にいるのか?』
「ああ。うるさいか?」
『いや、車の音がしたからな。心配しねーでも、お前の声はよく聞こえるぜ?』
本当に用事があるわけではないようで、跡部の声は柔らかで心地が良い。
声が聞きたかったという彼の思いは、手塚にもよく分かる。できれば直接逢って聞きたいが、跡部にも都合というものがあるだろう。「逢いたい」という一言は、なかなか言い出せなかった。
『自主トレでもしてんのかよ』
「買い物だ。悩んでいてまだ買えていないんだが」
『そんなに高価なものなのか? なんなら出資してやろうじゃねーの』
「馬鹿を言うな、お前に贈る物をお前に買わせてどうす――」
『は?』
ハッとして口を噤んだが、もう遅い。跡部の耳に入ってしまった。
言うつもりはなかったのにと、手塚は額を押さえる。驚かせてやりたい気持ちがあったのに、これでは跡部も気づくはずだ。
『お前が、俺に?』
これはもう仕方がないと覚悟を決めて、手塚は口を開いた。
「もうすぐお前の誕生日だろう、跡部。何か贈りたい」
『……――ま、待て待て、俺様を驚かすとはやるじゃねーの手塚ァ』
電話の向こうから珍しく慌てたような声が聞こえて、なぜこれで驚くんだと首を傾げる。
「駄目か?」
『そうじゃねえ。まさかお前が、誕生日にプレゼント贈るタイプだとは思ってなかった』
自分でも分かってはいても、実際に言われると面白くない。悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。
「……らしくないというのは理解できる。だが、俺をそんなふうにしたのはお前だぞ、跡部」
『不意打ちででけェ愛の塊打ってくんじゃねーよ。お前そういうところあるよな。けど……嬉しいぜ、手塚』
嬉しいと言ってもらえて、少し安堵する。たくさん贈り物をもらうだろう彼に取って、迷惑なことではないのだと。
しかし、目下の問題はまだ何も解決していない。いっそ本人に訊いてしまうのも手かと考えた。
「だが、何を贈ればいいか分からないんだ。跡部、何か欲しいものはあるか? そんなに高価な物は贈れないと思うが……」
『もしかして、結構悩んでたのか、それ』
「そうだな……かれこれ十日ほどは」
笑われるかと思ったけれど、電話の向こうからは『そうか』と柔らかな声しか返ってこない。
『この間逢った時に様子がおかしかった原因が分かったぜ。俺とのことに飽きたのかと思ってたが』
「飽きるわけがないだろう。というか、すまない……そんなふうだったのか」
『お前からもらえる物なら、なんだって嬉しいぜ、手塚。そうやって悩んでくれてんのが、なんて言うんだろうな……愛しい、ってヤツか?』
吐息のように呟かれた言葉に、頬の熱が上がったのが分かる。巨大な愛の塊を打ち返された気分だ。
「な、何でもいいというのは困るんだが」
『じゃあ、お前の好きな物。テニス関係でも、釣り関係でも、山でもいいぜ。そういえばお前もクラシック聴くよな。なんでも、好きなやつをくれ』
手塚はぱちくりと目を見開いた。跡部自身の好きな物ではなく、手塚の好きな物が欲しいというのか。
そんな発想はなくて、ただただ驚く。
『まだつきあって日が浅いだろ。知らねえことがそれこそ山ほどあるじゃねーの。俺はお前のことをもっと知りたい』
それはそうだ。学校も違えば生活環境も違う。テニスに打ち込んでいるという共通のものがなければ、知り合ってさえいなかった。跡部のことに関しても手塚自身知らないことがたくさんある。
『普段何を見て何を聴いてんのか。何を読んでどんなことを思うのか。何をしてどういう楽しみを見いだしてんのか。手塚国光という男を俺に教えろ』
こんなとき、跡部景吾という男に新鮮さを覚える。自分にはなかった考えが流れ込んでくるのは、案外楽しかった。
彼に、手塚国光という男をもっと知ってもらいたい。そして好きになってほしい。
「そういうことなら、跡部。今から逢えないか? いや、明日でも構わないから……逢いたい」
サプライズにはなりようがないけれど、知ってもらうのなら直接逢って話した方が早い。なによりも、顔が見たい。
『だ……から、不意打ちでそういうの打ってくんなって言ったじゃねーのよ。……今どこにいるんだ』
逢えるようで、胸が熱くなる。手塚は居場所を告げて、通話を打ち切った。
きっかけはうっかりだったが、結果的に良い方向だ。
さて、どうやって自分を知ってもらおうか。
何を重点的に話そう? できれば一緒に楽しめる物がいいと、様々な考えを巡らせながら、恋人の到着を待つことにするのだった。
「本?」
オウムのように返されて、手塚はああと頷いた。
跡部と合流して足を向けたのは、大型書店。いつもなら参考書のフロアに先に立ち寄るけれど、今日の目的は勉学ではない。
エスカレーターでそのフロアを素通りする。一段空けてあとにつく跡部を振り返り、どうにも新鮮な光景に口許がゆるみそうになった。
「お前もよく本を読むだろう。読むのが苦手だという人はいるが、そうでないなら紙の本というものは良い」
「ああ、そうだな。ページをめくるときの感触は、俺も好きだぜ。それにしても、本か……本ね。悪くねー選択じゃねーの、手塚ァ」
いつものしたたかな笑顔でそう返されて、手塚はホッとする。彼が読書を好んでいるのは知っていたが、家にはそれこそ本屋並の書庫さえあるだろう。つまらないと思われたらどうしようかと思っていたが、杞憂に終わったようだ。
「普段はどんなジャンルを? 海外文学か」
「ん、ああ……そうだな。戯曲なんか好きだぜ。この本屋、原書は置いてあんのか?」
跡部は海外で生活していた期間が長い。海外文学は翻訳されたものより原文の方が読みやすいのだろうか。
それには正直ホッとした。目当ての本は原書だったからだ。跡部なら原書でも難なく読むだろうが、日本の作品を好んでいれば少し悩みどころたった。
「俺は大抵ここで買っているな。品揃えは良いと思う」
「お前も洋書読むのか。へえ」
跡部が戯曲を好むと知って、先にそのコーナーへ向かおうかと提案してみる。だが、それには跡部の眉根が寄った。
「馬鹿。先に俺へのプレゼントにしろ。お前のことを知りたいって言ったじゃねーのよ」
「……そうだった。すまない」
ここへは跡部へのプレゼントを買いに――自分のことをもっとよく知ってもらうために来たのだった。隠しもしない跡部の想いに胸がむずがゆくなる。ごまかすように眼鏡を押し上げ、目的のフロアで降りた。
「ミステリーか」
「ああ。ファンタジーも面白いんだが、シリーズ化している物が多くて、どれを勧めたらいいか分からない」
「確かにそっちはなじみがねえな。ほう……なかなかいろいろあるじゃねーの」
面白そうだ、と機嫌の良さそうな声が聞こえる。本屋の醍醐味は、知らないジャンルを気軽に手に取れるというところだ。通販もできるが、こうして実際に中身を見て好みかそうでないかを判断できるのは、とても良い。そこから新たな興味が生まれることも多々あるだろう。
「で、お前が好きなやつはどれだよ?」
「ああ、この作家なんだが」
手塚は作家別に分けられた棚の前で足を止め、見慣れた名前が表示された札を指す。それほど作品数が多いわけではないが、表示札を作られるくらいには本がある作家だった。
「作家買いしてんのか」
「読みやすいというのもあるんだが、トリックや犯人を暴くまでの過程が面白くてな。気づくと没頭している」
「そういう感覚は分かるぜ。翻訳物だと、訳者で決めるときもある。微妙なニュアンスが俺に合ってるかどうかで判断するが、安堵感てヤツだろうな。こいつなら間違いねえって感覚」
ああ、と手塚は頷く。この感覚まで同じだとは思っていなかったが、嬉しくなった。跡部と感覚を共有できるものがまた増えたのだと。
「特に気に入っているものはこれなんだが……」
そう言って棚から本を取り出し、見慣れてしまった表紙を確認する。跡部に差し出してやると、あらすじも中身も確認することなく、満足そうに笑った。
「じゃあそれにしろ」
「いいのか?」
「お前が気に入ってるヤツなんだろ。読むのが楽しみだぜ」
ひとつ、目を瞬く。なんの躊躇もなく信頼を向けてくる跡部景吾が、本当に愛おしい。ここが公共の場でなければ、間違いなく抱きしめていただろう。
「ならばこれにしよう」
「なあ手塚。お前も誕生日もうすぐじゃねーの。俺も……俺の好きな物をお前に贈りたい」
購入を決めてフロアを移動しようとすれば、跡部が引き留めてくる。
確かに手塚自身の誕生日ももうすぐだ。十月四日生まれの跡部から少し遅れた三日後、十月七日。恋人ができて初めての誕生日だ。
「……お前も?」
「ああ、今改めて実感したぜ。惚れたやつの好きな物もらうってのが、どれだけ嬉しいか。俺が好きな物もらうより、なんていうか……すげえいいなって思ったんだ。なら、惚れたやつに俺の好きな物を贈る気持ちはどんなもんかって考えちまった。駄目か?」
「いや、そんなことはない。嬉しい」
お前の好きな物を贈ってくれと提案してきたのは跡部の方だが、手塚も嬉しく思ったのは間違いない。
そんな発想がなかったせいもあるだろうが、自分を知ってもらいたいと思う自分の気持ちさえ新鮮で、そわそわした。実際贈る本を手に取った今でさえ、胸が落ち着かない。
気に入ってくれるといい。せめて苦手な文体でないといい。どんな感想を抱いたか教えてほしい。少し先の未来を思い描いて、期待と興奮でいっぱいだ。
「俺も、お前が好きな物をもらいたい。跡部がどんなものに心を動かされているのか知りたいと思っている」
「ハハッ、まあ俺がいちばん心を動かされんのはテメーだけどな、手塚ァ」
「それは俺もお前がいちばんだが」
自信満々に「だろうな」と返してきた跡部は、携帯端末で何かを検索し始める。
「この本屋に置いてあればいいんだが。なかったら違う本屋付き合えよ」
「在庫検索の端末が確かあったはずだが……」
どうやら跡部も、手塚と同じく本をプレゼントしてくれるようだ。フロアの隅に置かれていた検索システムへと足を向け、たどたどしい手つきで検索する跡部の姿に口許が緩みそうになって、ふいと顔を背ける。抱きしめてしまいそうだ。
「あったぜ、手塚ァ。これどこの棚だ?」
「ああ、これならそっちの棚だな。ドキュメンタリー?」
印刷されたシートに従って棚に移動すれば、目当ての物がすぐに見つかったようで、跡部が棚から取り出した。それは一人の男性が描かれている洋書。
「一言で言えば、実際にあったことを基にしたサクセスストーリーだな。まあ俺様の人生には及ばねえが、こういうのは読んでいて気持ちがいい」
「なるほど。今まで触れなかった分野だ」
差し出された本を取り、ぱらりとめくる。数行読んで頷く。
「ではこれを。読むのが楽しみだ」
跡部に渡し直し、お互いに相手への贈り物が決まったことに満足げな顔を合わせた。
一階に集約されたレジカウンターに移動しようとしたところ、エスカレーターの傍にブックカバーが陳列されていた。サイズ別に様々なものが置かれており、手塚と跡部は目を見合わせる。
「どれが好みだ?」
「これなんか可愛いじゃねーの。お前に似合うぜ」
「俺が可愛いものを持っていてどうする。おい、跡部」
「もう決めたぜ。お前は?」
制止を聞く気はないようで、手塚も彼に合う可愛らしいものを選んでやった。
悪くねぇじゃねーのなどと言われてしまえば、少し意地悪をしたかった気持ちもしぼんでいってしまう。上機嫌の跡部をちらりと見やった。
今日逢えて良かったと心から思う。たまにはわがままを言ってもいいのだろうかと、少し肩の力が抜けた。あんなに悩んでいた彼への贈り物がすんなり決まったこともあるが、彼からも同じ贈り物をもらえるなんて。
自分をさらに知ってもらえる喜び。
彼をもっと知ることができる幸福。
「なあ手塚。来年もこうやって、自分の好きな物贈り合わねーか。すげぇ楽しいじゃねーの」
「……ああ、お前さえ良ければ、ずっと続けていたいと思う。こんなに幸福な気持ちになるとは思わなかった」
「提案してやった俺様に感謝しな」
こつりと拳を合わせ、その手を繋いで一階へ向かう。プレゼントということで、綺麗にラッピングしてもらった。本と、可愛らしい猫モチーフのブックカバーを。
当日はたくさんの人に祝ってもらうのだろうからと、少し早いがお互いにプレゼントを交換する。ちらりと見やると、同じくそうした相手と瞳がぶつかった。
「嬉しそうな顔してんじゃねーの」
「お前もだろう」
夕暮れ時、このまま別れてしまうにはまだ早い。切り出したのは、跡部の方だった。
「今から俺の家こねーか、手塚。もう少し……一緒にいたい」
「…………少し、でいいのか?」
やぶさかではないが、と手塚は眼鏡を押し上げる。それは牽制の意味もあった。この状態でこれ以上一緒にいて、抑えきる自信がない。
それに気づいたのか、珍しく跡部が視線を背ける。赤くなった頬に頭を抱えたくなったが、その手を取られて体が傾いだ。
「前言撤回するぜ」
これは拒絶かと一瞬思いかけたけれども、触れてきたのは唇だった。触れた唇の熱さに、外だぞなどという野暮な言葉が飲み込まれていく。
「一緒にいろ、手塚。永遠にだ」
「ああ、そうだな跡部。永遠に」
そうやって、二人は跡部家へと足を向けた。
あの時触れた熱が、今日、永遠になる――。
2022/10/02